メンバー紹介

ジュリアーノ・デルペーロ (Giuliano DELPERO) 修道士

わたしは,1947年8月23日にイタリアのトレントのアルプス地方のヴェルミリオという小さい村で生まれました.ミラノで哲学と神学を学んだのち,1971年に MOPP に入会しました.ミラノの共同体で9年間暮らし,1984年に日本に来ました.

わたしは家具職人です.また,週に1日イタリア語を教えています.

わたしの福音宣教者としての活動は,神の御ことばを聴くグループに参加し,御ことばで皆を勇気づけることです.そこには,洗礼を受けていない人,カトリックやプロテスタントのさまざまな教会のキリスト教徒,聖書を知りたいと望む人など,さまざまな人が来ています.

数年前から,イコンについてのオープンセミナーをしています.また,日伊協会の青山教室で「聖書と芸術」というセミナーをしています.

趣味は,山登りです.

レミ・オード (Rémi AUDE) 神父

わたしは,1948年3月にフランスのトロワで生まれました。ソルボンヌで近代・古典文学を学んだ後,1970年に MOPP に入りました。トゥルーズの共同体で10年間暮らしたのち,1983年に日本に派遣されました。

わたしは電気技術者として,電気製品の組立てをしている会社で働いていましたが,定年退職しました.

わたしの福音宣教者としての活動は,特に,典礼を活性化すること,そして,いくつかの祈りのグループを指導することです。

小教区の求めに応じて,聖書朗読者を養成したり、新しい典礼聖歌を教えたりしています.

また,生け花の先生の協力を得て,神の御ことばを生け花で表現することもしています。

毎月第二土曜日の午後、教会で友達と一緒に歌の練習をした後、夕の祈りをします。

わたしの趣味は、弓道です。

ルイ・ロゲ (Louis ROGUET) 神父

わたしは1945年5月17日に、スイスのジュネーブで生まれました。哲学と神学を学んだのち、1968年にMOPP に入りました。

1976年から1981年まで,日本の共同体にいました。その後,ブラジルのジョインビルにある共同体で8年間,若者の養成に携わっていました。そして1998年9月から,また日本で活動し始めました。

病気などのさまざまな理由で社会の隅に追いやられている人々に近づいてゆきたいと思っています.

わたしの趣味は,料理です.

ジュリアーノとの対話:

Q. どこで生まれたのですか?どんな子供時代でしたか?

イタリアのヴェルミリオという村で生まれました.9人兄弟の7番目です.

Q. ヴェルミリオ (Vermiglio) という名前の意味は何でしよう?

「朱色」という意味です。ヴェルミリオ村は,トレンティーノ州の一番はじにあります.

オーストリアとの国境沿いにあるので,第1次世界大戦のときはオーストリアに占領されました。すべての村人たちは捕囚されて,ウィーンの近くに移されました.病気でたくさんの子供たちが亡くなりました。毎朝,オーストリア人の警察官は泣いている子供がいないか調べて,泣いている子は連れていかれて,死にました。わたしの母の兄弟5人も亡くなりました。わたしの父もある朝病気だったけど、おじいちゃんは彼をかくして泣かないようにしたので,つれていかれずにすんだそうです.

ヴェルミリオ村の良いところは,森と高い山に囲まれて,夏もスキーできるくらいです。村が位置する谷の名前は Valle di Sole, 太陽の谷。まわりに高い山がたくさんあります。標高 3600 m の山も.

わたしの子供の時代,すごく楽しかった。遊ぶところがたくさんあった.家族や近くの子供たち、50人くらいでかくれんぼする。3人くらいが鬼になる.隠れて待っている問,ニンジンを盗んで食べたり.高いところへ行って,エーデルワイスの花を摘んで売ったりもしました。父よりもお金もうけた覚えがあります。エーデルワイスを摘んで,小さい花束を作って,観光客に100リラで売る。そのとき,外国人観光客に「ワン・シガレット」とか「アイネ・ボンボン」とか言って,いっぱいもらいました。

山には戦争のときの爆弾のかけらがいっぱい残っていました.今も残っていると思います.あちこちにちらばったかけらを集めて何キロかになると,売ってお金にしました。ときどき不発弾が見つかることもありました。何も知らないから,一度,それを投げてみたことがあって,そのときは幸い爆発しませんでした。爆弾の中に銅の部分があって、これは高く売れたのです。ふたを取って中味を分解して、お金にするわけです。でも,そのとき爆発して死んじゃう人もいました。また,氷河から完全な形の第1次世界大戦の兵士の遺体が出てくることがありました.わたしの子供時代にも,四人の遺体が4人出てきたのを見ました.

Q. 村の教会で鐘を鳴らしていたずらしたんですって?

家の近くに小さい教会があって、その教会の鐘は,村に火事が起きたときにボランティアの消防士たちに知らせる警報になっていました.わたしたちはときどき,いたずらでこの鐘を鳴らしました (^ ^).近所のおじさんが見はっていて,子供の手が届かないよう,鐘を鳴らす綱の位置を高くしたのですが,兄は塔に登って鳴らしました.おじさんがとんできて、下で待っていたのですが,兄は屋根を伝って逃げました。

Q. 小学校時代はどんなふうでしたか?

小学校は5年間.中学校はトレントの学校ヘ行きました。中学校へ入るために試験があって、苦労しました。オーストリアの教育制度だったので、長い年数勉強しました。まだ義務教育ではありませんでした。学校から帰ると、父の仕事を手伝いまた。大きな木を切ったり.それは自慢でした。あるとき,ある神父に神学校へ行くよう勧められました。

Q. その後は?

わたしたちの家族は引越して,ミラノの近くのヴァレーゼというところで暮らし始めました。そこは信者がとても少なかった。教会に行く人は少なかった。いろんなきっかけで、教会に行かない人達と知り合いになって、友達になりました.共産党の人とも。教会に反対する人達だけど、とてもおもしろい人達でした。司祭とそのことを話したことがあるけど、彼は,その人達のために時間がないとか、興味がないとか言っていました。その村で一番強いグループは共産党の人達でした。イタリアの共産党は,フランスとか、ほかのヨーロッパの国とはちょっと違うのですが。神様や教会とかに全く興味ない人たちかと思ったけど、彼らとつき合うと、互いに助け合ったり、人間的に豊かだったりしました。彼らとオープンにつき合うために教会は何もしないのはもったいないと思いました。

Q. その頃、共産党の人たちと教会の人たちとは離ればなれだったのですか?

そう,共産党の人たちは絶対に教会に行かない!

Q. 教会の立場でのアプローチは?

互いに全く関わらないふたつのブロックだった.特に教会の方は,残念ながら、共産党の人達は失われた人々だと考えていました。そうは言わなかったけど。

Q. 村の中で,共産党員にはあまり近づかなかった?

共産党の人は、信者に対していやがらせをすることもありました。でも、父の仕事の関係で村の共産党の人と知り合いになって、いい友達になりました。神学校に戻って責任者にそのことを話すと,彼は理解のある人で,「これは大事なことですから、司祭になってそのことをやれば大変意味がある。あなたの望んでいることは、キリスト教と関係のない人とつきあうこと。それは難しいことかもしれない。司祭は信徒のために働くのが当たり前だと思われているから,違うことすると文句をいわれるし、司教も賛成しないかもしれない.しかし,キリスト教を拒む人々のために働くグループもあるかもしれない」と言ってくれました。それで,そういうグループを探しました。イタリアでそういう動きもあったけれど,個人的なものでした。

フランスで,戦争中、大変な体験をした司祭たちがいました。捕虜になって,ナチスの支配下で強制労働させられたのです.彼らは,神父であっても,一般の人々と同じ生活をさせられ、集団生活を経験しました。彼らは,そのような体験のなかで目覚めました.終戦後,帰ってきてから、彼らは,労働して普通の所に住んで生活することにしました。その一人がジャック・レーヴ。わたしたちの聖ペトロ・パウロ労働宣教会の創立者です。

そのような宣教のしかたに興味を持った司祭たちの中には,イタリア人も 2, 3人いました。実際にやってみると、簡単なことではありませんでした。仕事をして戻ってくると、疲れ果てて、食事や祈りの時間を持つことも難しくて.数ヶ月のうちに何人もがやめたり、前のやり方に戻ったりしました.

Q. あなたにとってはどうでした?

神学校3年生のとき,卒業まであと2年間あったけど、責任者に相談したら,「あなたの希望にあうところかもしれません」と言われて、友達と一緒に,スイスの聖ペトロ・パウロ労働宣教会の本部を見学に行きました。冬だったので、雪が深く、車も動かなくなったので、スキーで行きました。もう一度夏に行ったら、総長さんは,1年間くらい仕事をして、使命を確かめなさい,と言いました。わたしは会社勤めしたことがありませんでしたから.

Q. すぐに MOPP に入るつもりでしたか?

神学校でいろいろ考えました。神父になろうか,どうしようかと。私の一番いい友達は、そのときすごく危機的でした。1968年5月にパリで学生運動がありました.イタリアでは翌年,1969年でした。いろんな変化がありました。革命みたいでした。その時、何人もの仲間がやめたり、他のところへ行ったりしました。

Q. そのとき教会は?

教会のなかにも,もっと本当のことを守ろうという動きがありました。それは良いことでした.でも,長い間続いたことを見直すのは大変でした。子供を生む苦しみのようでした。私達にとっても、責任者にとっても。

その時,私は選択しました。会社に勤めてみなくては。その頃、会社を探すのは大変でした。勉強した人は特に。やっと会社をみつけました。車のエンジンのプラグを作る仕事でした。三交代で,機械に従って、毎日8時間,8600個のプラグを取って、機械に入れて、二箇所をくっつけて…。そのままだったら死んでしまいそうでした。幸い、スキーに行って足をけがをして、1ヶ月間休みました。

100人位の若い労働者が暮らす寮に入っていたので、たくさんの友達ができました.映画のサークルを作ったりして,おもしろかった。看護婦の寮が隣にあって、パーティーや、お祝いの計画をして、活動しました。リーダーをやらされました。

祈りの時間を確保するのは大変でした。三交代労働で疲れはてて…。全部やめてしまいたいと思いました。

Q. 神父になるか修道士になるか、決めたのですか?

ずっと神学校にいたら神父になったけど、社会で本当に生々しいことを見たので、世間に目を向けた人も必要だと思いました。福音を読むと、イェスは離れた人とか罪人の中に入ったでしょ。一緒に座って話して…。「わたしは,失われた者のために来た」とイェスは言いました。信者じゃない人の中で生活していると,いろんな新鮮なことを感じます。人間的な要素を感じます。私の感じ方は,信者ではない人々に向いていると思いました。だから、神父になって小教区の教会を指導するのは大変だったかもしれません。

Q. ジュリアーノにとって,信者でない人とか共産党の人に出会ったことが大きかったのでね。

彼らは魅力的な人たちでした.神様を認めないのに、彼らの中には助け合いや連帯の精神がありました。彼らは,私が教会の人間であることを非難しませんでした。何も言いませんでした.彼らはわたしと一緒にいて安心していたように思います。

信者でない人は,私に必要です。互いに相手を必要としていると思います。違う考えによって,私の信仰も清められます.批判されることもありますが,批判が無いと簡単に信じることになってしまいます。だから,もっと正しくなるために、深くなるために,批判は有用です.批判は、私を助けてくれます.

一緒に食事をして,死ぬこととか,死んでから後のこととかを話し合うと,だれもが気にしているのです.ある人が私に言いました:「私はあなたのような信仰望みたいけど,できない」と。だから一緒にいるだけで安心する。その連帯!

わたしたちの「聖書の旅」に参加する人は、神を信じないこともできるわけです。一緒にいることによって,その人のおかげで、私も恵みを感じます。3日間ぐらい一緒に暮らすことで,その人も喜びを感じる。そのようなことがあるために、本当の出会いが必要です.本当の正しい出会い。同じ所に過して,食事を一緒にして、準備して…。本当のつき合いがあれば,なんとかなると感ぜられます.

人間は皆,命をもっている。命は自分のおかげではなく、神様からいただいたものです。信じない者でも命をもっています。この命、別に頼んだわけではない。無償でいただいたもの。この命は、分かち合うときにより大きなものになります.信仰を持っていなくても、この命をはげまし,強め、楽しむことは,神を喜ばすことです。神は命の泉ですから。

命があるところ.愛があるところ。あるいは、愛を必要としているところ。信じている者と信じてない者がこの命と愛に基づいたつきあいをすることできれば、ともにより豊かな人間になるのではないでしょうか?

Q. いつ日本に来ましたか?

1984年です.

Q. どうして日本を選んだのですか?

遊ぶため (^ ^). 本当はブラジルに行くことを考えていました.ビザを取得するのにとても時間がかかりそうだったので,その間,日本にいる兄弟を助けに行って下さい,と MOPP の総長さんに言われて,6ヶ月間の観光ビザで来ました.その6ヶ月間,楽しくて,楽しくて!ブラジルのビザを高い手数料を払って取得したけど,それを捨てて日本に残りました.

Q. ジユリアーノは一度も結婚したことがないのですか?

冗談で「私は結婚しています」と言ったら,皆信じてしまったことがありました!残念ながら,実際は結婚したことがありません.理由はひとつしかない.私の相手はまだ生まれていないから.いや,生まれているかも知れないけど,私と結婚するのはかわいそうだから.結婚して奥さんと子どもを世話しないとおかしいでしょう.会社人間になって,自分の奥さん,自分の子どもと一緒にいる時間がないとね.結婚に反対するわけではない.結婚はすばらしいことですから.結婚生活に十分な時間と力を入れないと,中途半端になってしまうのではないか.私の活動とか宣教の仕事とかをみると,どうでしょうね.まあ,ある人にはできるでしょう.例えばプロテスタントの牧師さんたち.彼らは結婚しています.結婚はすばらしいことですけど,結婚する人は自分の配偶者や子どものために精一杯やらないと!カトリックでは,結婚すると奥さんと一つの体になると考えます.あまり家にいないと困ったことになる.結婚を考えたことはあるけれども,最後に選ぶのは本当にどちらが幸せになるかということです.

私たちは幸せになるために作られた.それは神様の御旨です.神様の御旨は,神の子どもである人間たちが幸せになること.神様を認め,神様の下で神様の望むように生きることができれば,幸せになれる.それを選択するのは大変なことです.一回だけ選ぶのではなく,ほとんど毎日選ばなければならない.

結婚している人も,自分の奥さんに忠実に一緒にいるか,あるいは他の男性,女性と自分の人生を過ごすかを,毎日決めなければならない.結婚式で自分の人生を決めるのではありません.結婚式をしても,本当の意味で結婚生活を送っていない人は非常に多いと思います.

Q. ジュリアーノはいろいろなことをしているようですが,一番の専門は何ですか?きっかけをたくさん作って,神様の言葉をのべ伝えること?

わたしは,人間が好きです.大家族の中で生まれたので,本当に人間が大好きです.人間が一緒にいると,相手からいのちを受ける.相手の心,相手の命にあるすばらしさにふれることによって,相手と深く結びつく.他の人に出会うことによって,相手の命は私たちの方に流れてくる.だから,ひとりぼっちになると水とか光のない花のような状態になる.縮んでしまい,枯れてしまう.もちろん時々は一人になった方がいい.植物は光と水さえあればだいたい育つが,人間はそれだけでは足りない.いくらお金や食べ物があっても,幸せにはならない.幸せになるのは,人間の交わりの中でです.一緒に食べたり飲んだりとか,いい所を訪ねたりとか,私たちのために創られた宇宙の中に一緒に生きるとか.

本職は家具職人.宣教師は趣味 (^ ^).神の御ことばの深さや重さを,仕事をしながら,材料を使いながら考えます.ずっと座って大学で研究している人もいるけど,私たちのもらった恵み,仕事のおかげで,聖書を読む時,自然に御ことばを味わえる.何故か?私が板を切る時,1 cm 以下,2 mm 以下を切る時,直すことができない.間違って,材料に対して正しいやり方をしないと,家具にならない.仕事をするのは疲れます.でも,その重さ,この世から逃げないことが重要です.福音と聖書は,この世の中に現れた神様です.私たちは,仕事を通してこの世の中にもっと深く入る.そのおかげで,御ことばを読む時もっと深く味わえるのではないかと感じます.

Q. 人間として生活するという態度?

豊かな人間になると,豊かな宣教師になれます.豊かな人間になると,豊かな信者になれます.逆も言えます.仕事をするのは大好きです.夢中になると,お昼になっても食事するのを忘れてしまうくらい.聖書を研究する時も同じ.ずっと8時間座りっぱなしでも大丈夫.遊ぶ時も時間を感じません.そういう変な性格を持っている.家具の仕事とか,聖書の集まりとか,本当に時間を感じないですね.それで,あっと言う間に年をとりました.

Q. もし一週間後に地球の最後の日が来ると分かったら,祈ることの他に何をしますか?何をしたいですか?

この世の終わりがいつあるのかは誰も知りません.だから,一週間後にこの世の終わりが来るとしても,私は今の生活を続けます.全然変わることはありません.何故かというと,カトリックの感覚では,わたしたちは毎日キリストの再臨を待っています.ミサでもその願いを言い表しています.ですから,この世の終わりが一週間後に来るなら,待っていることがやっと実現するわけです.偽予言者たちが言うように全部が破壊され,滅びるのではなくて,神との出会いが実現する.すごく望ましい出来事になります.一週間後にキリストが帰ってきてくれるなら,すばらしいことです.

わたし自身にとって,この世の終わりはいつか?それは私が死ぬ時です.

Q. 何をしますか?

特別なことは何もしない.今やっていることをする.何故なら,今も待っているから.

しかし,世の終わりを考えるよりも,明日交通事故で死んでしまうかもしれないのだから,今すぐ神との出会いを考える方がいいと思います.神との出会いは,死ぬ時だけではありません.信仰のおかげで,今,生きているときにも神と出会えます.神様が共にいれば,どんなにひどいこと,どんなに暗いことがあっても,私たちは悲嘆にくれることはありません.神様と一緒にいるので,こわいことがありません.

Q. 日本のことをどう思いますか?

難しい質問ですね.私は日本にきてから,日本は私にあう国だと感じました.一般的な話しをすると例外もあるけど,普通の日本人はとても純粋な人だと感じます.日本人は純粋な心を持っている人が多い.日本人はきちんと仕事するし,約束を守る.日本製品はよい.昔のすばらしいものも残っている.

少し残念なのは,日本人が自分たちのすばらしさを忘れているみたいです.文化の美しさがありながら,いろいろな面で自分の宝物をあまり大事にしていないように見えます.

それと,教育の問題,学校の問題.できるだけ良い意見が持てるような教育は,子どものペースで彼らの自主性を少しずつ伸ばすことです.いつもやさしい示唆で何かを子どもにやらせないと,子どもたちの心は育たない.いつも従っていればいいと思うようになると,いちばん悪い人間に育つ.ただ盲従するのは人間の特質ではない.今,世界中の教育の場で,人生の指導者,道を開く人,目的地まで前を歩いて導いてくれる人がいない.頭だけで教える先生が多い.これではコンピューターでも先生になれます.

ファシストの時代,イタリアではファシストに反対する人が多かった.アメリカとイギリスの軍隊が来る前に,イタリアのある町はパルチザンが自分の力で開放した.たくさんの人が殺されたけど.独裁者がいても,沢山の人がこれは正しくないと分かっていたので,反対した.ドイツ人は「私たちは命令に従っただけだ」と言った.従うことだけ教えると悪い教育になります.満足できないし,心も育たないから,モンスターみたいなものが出てくる.

私たちの社会の中で一番大事なこと,たとえば,心の豊かさとか.これは生まれつきあたりまえに備わっていることではありません.他人と一緒にいて,喜び,成長すること.

先生たちが良いヒントを与えないと,子どもたちはメディアから来る影響に左右されて,正しい方向へ行くことができません.今の子どもたちはかくれんほをするのを忘れてしまった.何故か?する機会がないから.遊びがおもしろくないから.パソコンやスマホでゲームをやって終わり.

フランスでドゴール大統領のもとで文化相だったアンドレ・マルローという作家は「21世紀の若者の世代は,神を信じるか,さもなくば存在しなくなる」と言いました.今や,霊的なものがないと,命を失う.自殺,薬物などで死ぬ若者が多い.日本の若者はどこまで霊的なものを求めているのだろうか?

今,世界中どこでも同じ文化になりつつある.世界中一つの文化,世界中が一つの村の文化になる.どこでも同じ考え方,同じ生き方になる.

今,世界は技術的にすごく進歩した.たぶん,千年間の歴史を最近の何十年間かで越えた.それは,人間にチャンスを与えるかもしれないけど,同時に,全部を壊す可能性もある.それは私たちの判断しだい.

人間には大きな可能性があります.希望を忘れてはいけません.伝えるべき希望はいっぱいあります.未来の世界にすばらしいことが必ず生ずると思います.新しい人間が生まれると思います.

レミとの対話:

Q. いつ MOPP に入ったのですか?

1970年です.その年の6月に大学を卒業して,9月にスイスのフリブールの信仰学校に入りました.MOPP の創立者ジャック・レーヴが創った信仰学校です.そこに3年間いて,その後フランスのトゥルーズに10年間いました.日本には1983年に来ました.

わたしは,フランスのトロアで生まれ,13才までそこで過ごしました.その後,小神学校に入り,18才までそこで過ごし,そして大学に進みました.大学ではギリシャ文学,ラテン文学,フランス文学を専攻しました.学生運動が盛んな時で,私も参加しました.

Q. 修道士になった動機やきっかけは?

私が行っていたクレテーユの教会の神父さんが,MOPP のことを勉強をしていました.すすめられたわけではないですが,MOPP を訪ねてみて決めました.22才時です.MOPP の共同体の生活,仕事のこと,低い立場の人と一緒にいること,そのやり方が気にいりました.

大学卒業後,フリブールの信仰学校へ入りました.MOPP の兄弟達はここで勉強します.人によって違うけど私は1年間仕事して,2年間勉強しました.

この信仰学校には三つの柱があります.第一に,神の御ことばを聴く.第二に,神の御ことばを典礼の中で生かす.第三に,日常の生活の中で,共同体として生活する中で,神の御ことばを生かす.

普通の学校は勉強だけしますが,この信仰学校では典礼と共同生活が勉強の中に入っている.勉強のやり方も違う.普通の神学校では聖書の授業の時,たとえば今年は詩編とヨハネの15章を勉強しますとなると,他の所はやらない.フリブールの信仰学校では,ひとつのところを詳しくはやらずに,全体を勉強する.神様はどういうふうにイスラ工ルのために御自分をあらわしたか,とか.

Q. 1年目は仕事をしたそうですが,どんな生活だったのですか?

三人で共同生活をして,プラスチックの工場で流れ作業をしました.一日の生活は,朝の祈り,仕事,食事の用意,食事,夕の祈り.世界中の MOPP の生活と大体同じ.そのころメンバーは12人ぐらいいたけど,皆,2, 3人ずつで共同生活をして,200 - 300 m 離れた所に住んでいました.

Q. 信仰学校を終えてからはどうしましたか?

フランスのトゥルーズヘ行きました.四人の共同生活.最初の9ヶ月間,電気の勉強をして,その後電気屋さんで週に40時間働いたけど,クビになつた.いろいろな職にきました.ある会社では組合を作ろうとして,社員15人の会社で8人が首になりました.

Q. 宣教師として,今,教会で典礼の歌を教えていますね.

典礼のことや教会のことを教えるのは,全体としては宣教と言えるかもしれませんが,しかし,既にキリスト教徒である人々に話をすることは,宣教ではありません.

Q. レミさんにとって宣教とは何ですか?

旧約聖書の「ザカリア」8, 23を読んで下さい:「万軍の主はこう言われる:その日,あらゆる言葉の国々の中から10人の男が1人のユダヤ人の裾をつかんで言うだろう:あなたたちと共に行かせてほしい.神はあなたたちと共におられる,と聞いたからだ.」

このユダヤ人は,宣教していたわけではありません.たとえば今,或るスペインの修道院がグレゴリ聖歌で人気がありますが,彼らは別に宣伝はしませんでした.しかし,聖歌を聴いて,若者たちは,教会に行かなくても,急に何か感じました.

宣教は,誰かをつかまえて「私の言葉を聞いて下さい」と言うことではありません.人々は,わたしたちの生活全体を見て,何かを感じるのです.

諸国の人々10人はどうしてユダヤ人の裾をつかんだのか?神がユダヤ人と共におられる,と感じたからです.ユダヤ人自身は何も言わなかったのに.

Q. だとすると,宣教ってむずかしいですね... 10年間トゥルーズにいてから日本に来たわけですが,日本に来るのをどうして決めたのですか?

そのとき日本にいた兄弟が「誰かを送ってほしい」と言ったからです.わたしは,どこでもよかったのです.

Q. では他の人が日本に来る可能性もあったのですか?

実際にはその可能性は少なかった.年寄りの人には日本語を学ぶのは難しい.若い人でも日本語は自分には出来ないと思っている人もいました.

Q. 聖書を読まなければならないので,会話だけでなく,文字を覚えるのがたいへんだと思いますが.

祈りながら,聖書を読みながら.これが一番勉強になった.たとえば朝夕の祈りで詩編は毎日読むし,4週間おきに同じ箇所がでてくる.聖書はもともと意味がわかっているから,聖書の言葉をよく読むのが最良の日本語の勉強です.今では,他の本も読みます.

Q. 仕事は3年目から始めたのですか?

はい,まずエビナ電気で6年間働きました.普通の労働者と一緒の生活でした.MOPP として良かったです.

Q. 日本の会社で働いて,どんなことを感じますか?

いろいろな会社があります.前の会社は小さかったから,□を開く人が誰もいなかった.今の会社は後に大きな会社(親会社)があるし,組合もあるから,社長や工場長に対してパワーがあると感じる.でも同じ会社の中でもふたつの世界があると思う.ある人がおしゃべりばかりしていて,ある人が通信販売のカタログばかり見ていても,誰も何も言わない.他方,現場は冬寒く,夏は40度くらいになる.コンベアーでボルトなどの製品が流れてきて,それを箱にいれる仕事で,休む暇がないし,重い.休むのはコンベアーから直接箱に入る物が流れて来た時だけ.工場長は「新しく作るプロジェクトチームに入って下さい」と言ったけど,断って,現場を希望した.現場に来てから皆の態度が変わりました.皆と近くなった気がします.MOPP の兄弟としてふさわしい所にいると喜んでいます.

Q. 土曜は休み,また,残業はしないという条件で働いたそうですが,それについて他の人から何か言われませんでしたか?

ともに働いている人々との連帯を切るという意味では悪い事ですが,神様のために特別な時間をとるという意味では良い事です.皆,わたしが教会のために土,日を使っていると知っているので,何も言いませんでした.

時々面白い質問がありました:「レミさん,お祈りでは何を祈るのですか?」この質問は,「何を頼むのですか」という意味でしょう.日本でお祈りというと,柏手を打って願いごとをする.しかし,祈りは,神様へ心を向ける事です.祈りについて少しずつ話しました.

また,「神様は天地を創られた方です」と話すと,「この世がどういうふうにできたか考えたことがない」と言っていました.

皆,土,日曜,私が何をしているか詳しく知りたいようで,よく聞かれましたが,聖書の旅のことを話したりして誘っても,なかなか来ようとしない.皆,こわいみたいでした.新しい宗教がこわい.私が何者かわからない,カトリックだと言っても信じませんでした.何人か誘っても,彼らは「行きます」と言っても,「用事ができた」とか言って,最後は来ないこともありました.

Q. フランスと日本と両方で働いてみて,どんな違いがありますか?

フランスでは正社員として雇用されますが,日本では私達はアルバイト扱いでした.日本ではまとめて長く休めないが,フランスでは1ヶ月続けて休みがとれる.日本では会社の命令に皆従う.フランスでは皆が連帯して会社反対する.

Q. 話題を変えて,毎月第2土曜日にやっている「夕の祈り」について話して下さい.アンドレ・グーズ(ドミニコ会の神父,教会音楽の専門家)のものが多いと思いますが.

トゥルーズにいた時もそうでしたが,MOPP 全体として,アンドレ・グーズだけでなく,東方教会の勉強をしていたし,関心もありました.イコンを使うのもそのためです.歌の言葉は聖書や教父の言葉から取られていますが,ローマの典礼は皮と骨だけで肉があまりない.それに対して,東方の典礼はすごく豊かです.言葉としてひとつの祝いを読むとき,いろいろな言葉で祝いの神秘を言います.夕の祈りでも,「光の歌」は伝統的なものですが,しかし教会の祈りに入っていない.ガリラヤの賛美歌も入っていないから,入れています.いろいろな聖歌,共同祈願,アルメニアの典礼,ローマの典礼,昔のフランス,スペインの典礼,マロニック,カルディアのものを取り入れています.